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7/16ワンエク「熊崎カービィにおけるカービィの冷酷さはどこから来たか?」

これはカービィ版深夜の真剣考察60分一本勝負の記事となります。

今回は自由テーマを選択し、「熊崎カービィにおけるカービィの"冷酷さ"はどこから来たか?」についてやります。

この記事は2016/07/16 21:59に書き始め、22:57に書き終えました。

カービィダンス 

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 今回のお題の始まりとなったのは『ロボプラ』の4-6、つまりメタナイトボーグ戦後のカービィダンスである。メタナイトボーグが溶鉱炉らしき場所に転落してもカービィは何食わぬ顔でいつものカービィダンスを始めるあのシーンだ。

 このシーンは定期的に話題になるようで、一部のプレイヤーが「カービィは冷酷だ」とか「カービィはメタナイトのことを信用しているからああやっているのだ」という"意見"を出しているが、筆者は過去の記事でも分かる通りカービィの生みの親である桜井政博の著書を読んでいた。その時に副産物として、今回の答えに繋がるであろう発言が見つかったのでそれを引用しておきたい。

桜井 政博が持つカービィ像とその影響

 桜井政博が自身のカービィ像を話したのは実は『週刊ファミ通』8月15日号に掲載された『『星のカービィ』というキャラクター』の一回しかない。その中に彼が自身の価値観をまとめたものがあるので引用してみよう。

パッケージなどのイラストはともかく、ゲーム中のカービィは口を点にしていることが多く、あまり笑ったり泣いたりしません。それは、カービィ自体がいわば"カーソル"に近く、プレイヤーの意思をなるべくまじりっけなしに反映してゲームをひも解く役目をしているからです。あくまで感情を持つのはプレイヤー。『ドラクエ』の主人公がしゃべらないのと同じです。
出典:『桜井政博のゲームについて思うこと』P55、週刊ファミ通2003年8月15日号掲載、『『星のカービィ』というキャラクター』

 極端に解釈すると、桜井はカービィ自身に感情を持たせないようにしていたことが分かる。これは彼がアニメ版『星のカービィ』の監修を手掛けるときにも反映されており、彼はカービィを喋らせないことでそれを達成しようとしていた。このような考えを踏まえると、先程の初代からあるため、誕生に桜井が必然的に関わるであろうカービィダンスではプレイヤーの「クリアできた!やったぞ!」という感情をカービィが代弁しているということになる。これと似たようなケースとして、『夢の泉の物語』や『SDX』でカービィがコピー能力を持たないキャラ*1を吸い込んだ時にUI画面では「スカ」と出るものがある。カービィ自身は感情を持たなくても、プレイヤーは「何もコピーできなかった…」という感情が生まれるので、ゲームには直接関係しないUI画面ではカービィがガッカリしているかのような一枚絵が出てくる*2

 ただ、このやり方は桜井の想定外の方向へ動いてしまった気がする。アニメ版『星のカービィ』の登場後、カービィは本編では碌に喋ることができなくなってしまったが、これは"純粋"を想定した「喋らせないようにする」という属性が、「喋らない」という個性として受け止められた結果だと言える。アニメ版の影響が非常に強いということはファンなら承知だと思うが、それと似たような問題がゲーム版のカービィにもあると筆者は考えた。つまり、"カーソル"を想定した「感情を持たせないようにする」という属性が、「無感情」という個性として受け止められた結果だということだ。

"相対悪"との戦いで

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 桜井のそのようなカービィ像が今では失われている、と安直な結論はここでは出さず現行のカービィシリーズでもそれを維持されていると見た。公式イラストのコピー能力を見ると、できる限りカービィ自身に感情を持たせていないことが分かるからだ。むしろ、維持しようとしたからこそ"冷酷さ"が生まれたのではないかと筆者は考える。

 『2』や『3』、『64』でカービィは真のラスボスであるダークマター族と戦ってきたが、あれは純然たる悪そのものであり、カービィが我々の価値観から見れば冷酷とも言えるやり方(眼球に攻撃を加えるなど)で彼らを攻撃しても、カービィは"ヒーロー"であった。

 しかし、現行の、特に王道*3の『カービィシリーズ』(所謂熊崎カービィ)でカービィが戦うのはそのような絶対悪ではない。特に『TDX』のクィン・セクトニア、『ロボプラ』のプレジデント・ハルトマンには物悲しいバックストーリーが存在する。それらがゲームを進めていくうちに明らかになると、『初代』から受け継がれてきた無表情を伴って彼らを打ちのめしていくカービィを見て「カービィは冷酷ではないのか?」という意見が出る土壌が生まれると言えよう。問題提起で挙げられた「メタナイトを無視したカービィダンス」は敵を倒せたんだから祝おうという考えと、メタナイトの今までのバックストーリーが衝突した結果と言える。

 

 最終的な結論を言うと、「『初代』から存在したカービィの"カーソル"としての想定が、ゲーム中における無感情という結果となり、そこに熊崎カービィ特有の相対悪である人物を衝突させたから」ということになる。これはシリーズものではあり得る話だが、元々原作者、または今は関わっていないがかつては重要なポジションにいた人が生み出した作品に、後から来た人がその作品の一項目を変更、または追加することによって、結果として全体のバランスに大きな変化が生じるという現象だ。

 

以上。

*1:ワドルディなど

*2:『夢の泉の物語』ではあまりそう見られないが、『SDX』ではハッキリと分かる

*3:HAL研内部で利用される「コピー能力を持つカービィ」が登場する作品